無限と唯一

キュー・ライフ ( Cue Life ) 2000年10月号: コラム原稿下書き
タイトル: 無限と唯一
 

知識が、意識が手技を越えてしまった瞬間に、球の世界は果てしない宇宙に突入する。
その前に、手技の感覚がどんな体験をし、どこまで鮮明に 『最高の手ごたえ』 を記憶に残せるかが、帰還するための指標になる。
いったん宇宙に出てしまうと、銀河に埋もれる一粒を探り出すような、途方も無い探求が始まる。
そしてその一粒が、何億光年もの旅を経た末にようやく手に入れられるほどの苦労をともなうことを、感じることが出来るのは同胞のみである。
しかしあまりに巨大な空間の中の一粒を、具体的な言葉で表して、分かち合うのは難しい。

初心者の頃は誰にでもある。
手が思うように動かないことなど、ぎこちない動きになってしまうことなど気にしない。
何度か繰り返しているうちに、何となくコツをつかみ、それが結果的に間違っていようとも、だいたい狙ったところにボールを運ぶ感覚を手に入れる。
そして途中経過がどんなであれ、最終的にタップの先が手玉を貫いたら、飛んで行くボールの行方があの辺りになりそうだと、オボロゲな近未来イメージに沿ってとにかく撞き、その結果に一喜一憂する。

「狙った所に行ったのにナー!」
「ぜんぜん違ってたのに結果オーライ!」

縁があり、興味を抱いて頻繁に撞き始め、上達して、取り合えずショットとおぼしき動きが身についてくると、度々思い描いた世界が現実となり、その快感に酔いしれる、ココまで来てしまうと・・・そう、『球の世界の住民』 になったと言えるだろう。
その頃に、最高峰のプレーを眼にする機会に恵まれると幸いだ。
素直に仰天し、憧れ、眼に焼きついたショットを真似てみるといい。
特に、キュー切れと言われる大きなショットを、その 『快感と手ごたえ』 を記憶するまで。
小さくまとまらないために。
この時点ならフォームが少々壊れても良いと、乱暴だが私はそう考える。
熟練してゆけばおのずと、ミクロの世界に入らざるえない。
余りに繊細なプレーだけで上級クラスまで上達し、さらに上を目指そうと必要に迫られてから大きなショットを習得しようとすると、一から全てをやり直さなければならない状況に陥る可能性が高くなる。

高度な理屈から入り、理論で固められた上で、手技を少しずつ磨いてから 『球の世界の住人』 になる人は少ないだろう。
理論より手技が常に先んじていれば良いのに、手技というものは、ある程度まで来ると進歩のスピードが急激に遅くなってくる。
相反して、不完全な理屈と感覚が、スピードを増して迫る。
概して言えば、『ビリヤードは幾何学的ゲーム』 と度々勘違いされることが起因してか、全てを型にはめて考えるようになる、語るようになる、と言えるかもしれない。

1.狙ったところに行かない。
2.キューが真っ直ぐ出ない。
そんな症状を訴え始め、即効薬を求める。

1.は、特に視覚に関する問題として、まとめ論じてしまうことにしよう。
眼球のレンズを通し、転地が反対になり球面に歪んで投影された風景の映像を、脳内で直線的な空間認識に置き換えているのに、モニターに映る画像と同様に考えてしまったり、色や周りの状況で、同じ長さが違って見える 『錯覚』 を知っているのに、慣れ親しんだ球の世界に照らし合わせることを忘れたり、両目で正確に見えるはずのない、キューの方向が見えると思い込んでしまう問題を。
見えている風景は、体調や環境にも大きく左右される、曖昧な世界なのだということを納得してしまうと、型にはめて考えにくくなるから、つい避けてしまう問題を。
そんなこんなは、出来るだけ楽に問題を解決して、早くあの快感を再びという、なんともしがたい欲求が先に立つからかもしれない。

2.は、『完全無欠な真ん中撞き』 を追い求めるのでなければ問題ないが、これに執着することは、ゴルフで言えば絶対に右にも左にも曲がらないティーショットを放つことに固執するに等しい。
ドロー系とかフェード系とか、曲がる方向を自分に合うどちらかに決め、安定したショットを確立させるべきと結論付けた、あるいはハッキリとそれを意識して使い分けるべきと結論付けた、歴史あるメジャーな競技に学ぶ方が得策だ。
ビリヤードは上下の回転に加えて、左右のひねりも使い分けなければならないから、どちらも確立させる必要があるけれど。
『完全無欠な真ん中撞き』 を仮に 『 ±0 』 とし、ちょっとブレて左へ少し、これを仮に 『 -1 』 とする。
ちょっとブレて右へ少し、コレを仮に 『 +1 』 とすれば、撞いてみるまで解らない 『わずかなブレ』 が、プラスとマイナスと言う別世界を生む。
これらと、『 -1 』 『 -3 』 を比べれば両者の差は同じ。
しかし、安定したプレーを前提に考えた場合は?

こんな世界に迷い込んでしまうほど球の世界に浸かってしまうと、特に 『 2. 』 に固執して、繰り返し繰り返し同じショットばかり練習すると、実際のゲームに必要な数々のテクニックの修練や経験を置き去りにして、抜けられない世界で足止めを喰らい、膨大な時間を、無駄にするとは言いたくないが、・・・無駄にする。
確かに完全無欠に限りなく近い 『真ん中撞きショット』 を要求される場面はある。
それは実際のゲーム中にどれ位の確立だろう?
種目にもよるが、このショットに限った練習は、プレー全体の割合に応じた程度にとどめておいたほうが無難だ。
ストローク中の全ての瞬間に、必要以上の、テクニック全体の熟練度にそぐわない、部分的な感覚だけが研ぎ澄まされてしまう。
結果、ワンショットを放つために何十回もストロークしないと諦めがつかない・・・。
そしてそのことに、真面目に取り組めば取り組むほど、迷宮に深く入り込んでいる。

もう少し噛み砕いてみるとしよう。
キューを前後に振る動作全般を指す 『ストローク』 は、準備運動としての 『ウォームアップ・ストローク』 と、ショットを繰り出す 『ファイナル・ストローク』 に分けて考えられている。
考えられているというのは、『ウォームアップ・ストローク』 を全く行わない際立ったプレーヤー達を無視できないから。
それにもうひとつ、実際のショットを繰り出すインパクトの動きとは程遠い、派手な 『ウォームアップ・ストローク』 をするプレーヤーも同様に。
そんなプレーヤー達が、世界の頂点に君臨していたりするのだから・・・。
『ウォームアップ・ストローク』 については、初心者から中級者向けに、親切で丁寧な解説を公開しているサイトがいくつかあるが、これらのプレーヤーは除外していることだろう。
先に挙げた 『迷宮人』 は、多くの場合この 『ウォームアップ・ストローク』 を基本と考え、日々格闘していることと想われる。
『ウォームアップ・ストローク』 自体は確立された 『プレ・ショット・ルーティン』 の一部なのだから、否定するものではない。
『ファイナル・ストローク』 は、ファイナル・バックスウィング → フォワード・スウィング → インパクト → フォロースルー と、ショットを放つ必要不可欠な動作。
では、
『ウォームアップ・ストローク』 は省けるのだろうか?
省いても良いのだろうか?
ショットと無関係でも良いのだろうか?

ここでインパクトの前後 5cm の世界を想像してみる。
一人のプレーヤーが、同じキューの同じグリップの位置を同じ力加減で握りこみ、同じキュー先の長さでショットを繰り出したとして、あとは何がショットを決定付ける要素か?
横から見たキューの角度と高さ、手玉を貫くキュー先のスピードと軌道。
上から見た手玉を貫くポイント、キュー先のスピードと軌道。
それさえ同じならば、同じショットが放たれる。
条件としてそう考えられなくもない。
しかし同じ人でも、手玉の位置とショットを放つ方向によって、インパクトの前後 5cm の世界だけでなく、握る位置やキュー先の長さを一定に保つことは出来ないことも事実。
完璧にキューを水平にしたまま、手玉の真ん中を撞くことが出来るポジションなど、ゲーム中稀にしか訪れない。
そんなショットが可能な状況は、皮肉にも、スリーのゲーム中に、もしくは、イングリッシュ・ビリヤードのゲーム中に最も多く訪れる。

気付かれただろうか?
同じキューを使い、インパクトの前後 5cm の世界を別の人が再現した場合、グリップの位置やキュー先の長さ、インパクトの瞬間の握りこみ、もっと細かく言えばグリップの手の大きさやブリッジの指まで、全く同じ体が同じストロークを行わない限り、同じショットを生み出すことは出来ないことを。

初心者の頃の狙いはかなり大雑把だったはず。
例えて言うなら、1cm 位の範囲内にヒットすれば、一喜一憂するに充分なショットと感じられる。
上達に連れてそれは 7mm、 5mm、 3mm と、少しずつ狭くなり、熟練度が増して経験が積み重なると、ショットのスピードや回転の組み合わせが加わって、求める結果の精度が高まれば高まるほど、膨大な数の選択肢から、一つの決断をしなければならなくなる。
先に挙げた、『インパクトの前後 5cm の世界』 を決定する要素の組み合わせの中から。
長い時間をかけて築き上げられた 『球の感性』 には、味覚と臭覚を除いた、触覚、視覚、聴覚に加え、経験をともなう知覚が関わってくる。
あらゆるショットを試行錯誤し、インパクトの瞬間の手ごたえをシッカリと感じ取って、眼を見開き、放たれたショットの動きと、的玉に当たった瞬間の音や、はじけた瞬間の映像を瞼に焼き付けてきたなら、それは素晴らしいデータの蓄積
それらは自分だけの宝なのに、時として迷宮への入場券にもなってしまうのだとしたら、ナントカして避ける道標を、避けられなかったら少なくとも、出口への道標を示したい。

--- 知識が、意識が手技を越えてしまった瞬間 ---
コラムの一行目に書いた。

『ウォームアップ・ストローク』 をして、ボールの行方をイメージする度に微妙なズレを感じてしまう。
何度か繰り返し、やっとピタッと来たと感じて 『ファイナル・バックスウィング』 を始めたら、その瞬間にもう違和感。
かき消せないもどかしさを抱いたまま、なんとかイメージ通りのショットを放とうと、『ファイナル・バックスウィング』 から 『フォワード・スウィング』 に移る時に、一瞬ストロークを静止させてみたり、『キューを真っ直ぐ』 に集中して、挙句の果てはインパクトの瞬間に手玉だけを見て 『エイヤッ!』
それで結果オーライになるケースが間々あるから中々抜け出せない。
でも、プレッシャーがかかり、ここぞというときに限って上手く行かない。

もし響いたなら・・・

ひとつ、『ウォームアップ・ストローク』 の度に、そのストロークがショットを放ったとイメージして、的玉に当たるポイントを追ってはならない。
毎回微妙に違うはず。
『迷宮人』 の感覚は、そこまで研ぎ澄まされているからこそ発生する問題。
そう、それは非常に厳しい精度を要求されるショットの話。
全部を同じに考えてはならない。
必要以上のエネルギーを使わないことも、重要なテクニックのひとつだから。
しかし迷宮に入り込んでしまうと、単純なショットにさえ影響してくるので始末に終えない。

ふたつ、『ウォームアップ・ストローク』 をしながら、撞き点やショットを探ってはならない。
それは 『無限』 に立ち向かうこと

「そんなことはない」
いるでしょうね、そう言われる人も。
ですから先に、世界のトップを走るプレーヤーの中には『ウォームアップ・ストローク』を・・・
と書いたのです。
思い当たるプレーヤーが、思い浮かびませんか?

ここで代表的な 3種目を、ポケット、キャロム、スヌーカーを、全く同じ眼で想像してみて下さい。
多少無理はあるでしょうが、無理してでも・・・。

種目が異なっても、登り口とルートが違うだけで頂上は同じ、そこは霧に包まれている。
どちらに向かうことも出来るので、目標をシッカリと定めていないと、グルグルと地表を彷徨う。
頂上付近までなんとかたどり着くと、霧でボンヤリとしていたそこに、果てしない宇宙へと伸びる絶壁を目の当たりにして愕然としてしまう。
そこからは、ただ上だけを見て、半歩ずつ進むどころか、ずり落ちないようにぶら下がっているのがやっとの世界。
意を決して登っても、いつマッサカサマに墜落してしまうかと、余程の覚悟がないと、登る気さえ起きない。

実際のショットを繰り出すインパクトの動きとは程遠い、派手な 『ウォームアップ・ストローク』 をするばかりでなく、インパクトの直後にヘッドアップしながら、ブリッジを離してしまうようなショットをするトッププレーヤーがいる。
誰もが認めるポケットの世界のトッププレーヤーが。
なぜでしょう?

どこから観ても方向が予想できないほど、キュー先を上下左右に 『こじり』 ながら 『ウォームアップ・ストローク』 をして、撞くと言うより、『ねじりはじく』 みたいなショットを放つのに、華麗で正確なボールコントロールをするトッププレーヤーがいる。
誰もが認めるキャロムの世界のトッププレーヤーが。
なぜでしょう?

最も的玉に当てる精度を要求される種目なのに、『ウォームアップ・ストローク』 を全く行わないトッププレーヤーがいる。
誰もが認めるスヌーカーの世界のトッププレーヤーが。
彼らはスタンスを動かす微調整さえしません。
なぜでしょう?

ココにタイトルの 『無限と唯一』 の意味、そして、迷宮人が抜け出す道標がある。
彼らが絞り込んでいるイメージは、繰り出そうとしているショットに集中する全ての行為は、
『手に残るインパクトの感触』 と 『ヒットした瞬間の映像データ』 のセットの実現
なのだ。

--- 手技の感覚がどんな体験をし、どこまで鮮明に『最高の手ごたえ』を記憶に残せるかが、帰還するための指標になる ---
コラムの 2行目にそう書いた。

自分だけの、『最高の手ごたえ』 の記憶から、ひとつを選び出す行為が 『決断』。
その記憶が鮮明なほど、詳細にわたるほど、機械さえ再現できないような『思い通りの世界』を生み出してしまう驚くべき能力が、人間にはあるらしい。

慣れ親しんだ環境さえ、自分自身の体調や、光、温度、湿度など、環境も刻々と変化している。
それら 『無限の世界』 に対面すること。
記憶に残る最高の手ごたえ』を生んだショットを、最新にアップデートされた記憶を 『唯一』 として決断し、自分に備わった曖昧で不可思議な五感を駆使しながら、知覚に基づいてアジャストするという、『感性の世界』に埋没することにだけ集中すること。

ゆえに練習は、同じショットばかり繰り返すのではなく、あらゆるポジションから、最も頻繁に起こりえるショットを基本とし、熟練度に応じて難易度の高いショットを付加してゆく。
環境が変わったら、それらをどの程度アジャストすれば良いのか、それらを 『手に残るインパクトの感触』 と 『ヒットした瞬間の映像データ』 のセットで、『快感』として記憶してゆくことである。

こんな、私の感じている『球の世界』もきっと、『無限の中の唯一』 です。
想っていたほど伝えられなかったのは、『無限』 にある 『言葉と表現』 という世界から、『唯一』 を選び出すだけの『手ごたえ』が足りないんでしょう。
それこそ 『無限に続く修業の世界』 ですね・・・。

そう、私の言う『道標』は即効薬ではありません。
『最高の手ごたえ』を、とにかく積み上げて、繰り返してゆかなければならないから。
ベテランの経験が最も顕著に現れるのが、異なる環境への対応。
少しでも近道しようとするなら、感性を、五感を常に研ぎ澄ますことが、なにより大切。

プレーヤーはもっともっと手の内を明かしてくれればと、そう思う人は多いでしょう。
私の知る限り、優れたプレーヤーに雄弁者はほとんどいません。
ただでさえ微妙な感覚を『言葉』で表現することは至難なのに、より深くその道を極めた、より純粋な心をもったプレーヤーほど言葉に詰まり、『人それぞれと言うしかない』 と、そんな台詞を返されるケースがほとんどです。
なのに微妙で難しい質問を、軽々しく聞くことは戒めたいものですが、やはり『聞いてみたい』と思うのが本音。
私は図々しく聞きます。
そして、選んで選んで選び尽くしてようやく搾り出されたわずかな 『黄金の言葉』 を受け取り、大切にしまい込みます。

聞いてもいないのに、技術のあれこれを雄弁に語られたら、疑ってかかるほうが懸命だと、私は常々想っているのに、今回は長々と、微妙な感覚の世界を語ってしまいました。
とあるビリヤード人気サイトの管理人が私にこう言ったからです。
「何でも口に出してみて欲しい。 あとはこっちで考えるから」
聞き上手な人でした。

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