愛しのジェラシー
キュー・ライフ ( Cue Life ) 2000年11月号: コラム原稿下書き
タイトル: 愛しのジェラシー
面と向かって 『気にいらない』 という感情をあらわに示す相手が、往々にして良き理解者であることなど、今時小学生でも理解している。
やっかいなのは、引きつった笑顔で口先は丁寧なのに、体全体で 『気にいらない』 電波を向けられた時だ。
利害と人間関係が招く状況らしいが、どう対応して良いものかと、戸惑ってしまう。
もっとやっかいなのは、互いに波長が合うと解っているのに、何らかの行き違いで、互いを避け合う羽目に陥った時だ。
きっかけがないと、修復不能に陥る。
それでも心の奥で気にしているなら、大切な人なのかもしれない。
しかし最もやっかいなのは、波長が合わないと互いに解っているのに、親しげに、笑顔で振舞わなければならない人間関係だ。
どうやらそこから逃げ出すことは難しい。
孤高に立ち、頂点に君臨する偉人を想う時、彼らがそれらの感情に対応する卓越した才能を見ることがある。
それは頂点に登りつめる過程で、頻繁に経験した故なのか?
それとも必要不可欠な技なのか?
あらゆる種類の 『ジェラシー』 を、彼らはまるで餌のごとく食い尽くし、栄養に変えてしまう? と、そんな極端なことを考えてしまう。
裏の裏とか、裏の裏の裏とか、突き詰めて考えてみれば、人の心が本当はどっちなのかなど、本人はもとより、専門家でさえ分析しきれるものではない。
言葉で表現できうる範囲内で見切りをつけ、つじつまを合わせたロジックを組み立てている。
その先にある 『?』 には、白いサテンの布を覆い被せて。
それは探求の過程だから、知ることへの興味を抱き続ける限り、掘り進んで何かしらの邂逅を得た時の快感を放棄しない限り、そのジレンマから逃げ出すことは難しい。
孤高に立つ彼らは、そんな振り分けに無駄な労力を費やさず、まるで、全てを飲み込む術を身に付けているのではないかと、そんな気がしてならない。
しかし、本当は傷ついている・・・。
孤高に立つスーパープレーヤーが、
「どれ程多くの恨みを買っているかわからない」
私にそう漏らしたことがあった。
勝負の世界では、相手が最も痛い時に、止めを刺さなければならない。
高いレベルに達するほど、一瞬の隙が展開を一転させてしまうから。
ブッチギリの華麗な勝利など稀にしかない。
ほんのわずかな一押しを、気の遠くなるほどしつこく繰り返し、相手が最も嫌がるその瞬間に、止めを刺してようやく勝利をもぎ取っている。
そのわずかな一押しが、想像を絶するほど技術の差があってこそ成し得ることだとしても、一瞬の隙を見せたばかりに、取り返しのつかない敗戦を数多く経験しているからこそ、二度とあんな思いは繰り返すまいと、非情になるしかないのだ。
彼のつぶやきは、勝利にともなう痛みを、リアルに語っていた。
映画 『アマデウス』 でモーツアルトが、彼を羨望するサリエリに、『嫌われていると思っていた』 と言うシーンを思い出す。
彼は才能の中に、作曲し続けるという作業の中に、孤独への恐れを封じ込めるしかなかったのだろうか?
孤高に立つ人は、いったいどれ程のジェラシーを受けとめているのだろう?
そしてどれ程の孤独感を、抱えているのだろう?
良き理解者からのそれは、中でも愛しいと、そう感じられるのだろうか?